三つの時代を経た島
日本の歴史を見つめてきた天草は、大きく分けて三つの時代を経てきた。
ひとつは1500年代後半の南蛮文化の時代。
このころ、欧州より宣教師たちが来島。
それにともない日用品もたくさん島に入っている。
印刷機などもあり、『いそっぷ物語』などを刊行、これらは布教のためのツールになった。
しかし、1587年に豊臣秀吉がキリシタン禁令を出し、さらに天草を統治する“天草五人衆”を配下に置くキリシタン大名・小西行長が関ヶ原合戦後に処刑される。
1600年のことだった。
その後に幕府は全国にキリシタン禁制を発し、キリスト教徒の弾圧が始まった。
不作が続き、年貢とキリスト教弾圧に苦しんでいた島民は1637年、わずか16歳の天草四郎を指揮官に、「天草・島原の乱」を起こす。
戦の後、天草は天領の地となった。
天草・島原の乱で多くの島民を失ったために、幕府は他の地の民を島に移住させる。
天草で陶芸が盛んなのは、素材になる陶石が良いだけではなく、有田焼などの陶芸を庇護していた鍋島藩内より移住者があったためだという説もある。
南蛮文化の時代、天領の時代と続いた天草だが、1867年の大政奉還によって時代が動く。
1873年(明治6年)にはキリスト教の伝道が認められる。こうして、新しい時代が明けたのだった。
日本の歴史を見つめてきた天草は、大きく分けて三つの時代を経てきた。
ひとつは1500年代後半の南蛮文化の時代。
このころ、欧州より宣教師たちが来島。
それにともない日用品もたくさん島に入っている。
印刷機などもあり、『いそっぷ物語』などを刊行、これらは布教のためのツールになった。
しかし、1587年に豊臣秀吉がキリシタン禁令を出し、さらに天草を統治する“天草五人衆”を配下に置くキリシタン大名・小西行長が関ヶ原合戦後に処刑される。
1600年のことだった。
その後に幕府は全国にキリシタン禁制を発し、キリスト教徒の弾圧が始まった。
不作が続き、年貢とキリスト教弾圧に苦しんでいた島民は1637年、わずか16歳の天草四郎を指揮官に、「天草・島原の乱」を起こす。
戦の後、天草は天領の地となった。
天草・島原の乱で多くの島民を失ったために、幕府は他の地の民を島に移住させる。
天草で陶芸が盛んなのは、素材になる陶石が良いだけではなく、有田焼などの陶芸を庇護していた鍋島藩内より移住者があったためだという説もある。
南蛮文化の時代、天領の時代と続いた天草だが、1867年の大政奉還によって時代が動く。
1873年(明治6年)にはキリスト教の伝道が認められる。こうして、新しい時代が明けたのだった。

